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播磨国風土記の里 加西

加西をめぐる、時代を翔る。

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ねっぴ~&フドッキー博士風土記の里をたずねて

日本最古の地誌『播磨国風土記』に記述されているゆかりの地を、ねっぴ~と風土記のとなら何でも知っているフドッキー博士がたずねて行きます。ふるさとの歴史をみんなで学びましょう!

第1回 播磨国府跡(姫路市総社本町)

ねっぴ~
フドッキー博士、記念すべき第 1 回目ですね。
でも姫路郵便局に来てもたけど。加西じゃないの?
フドッキー博士
ねっぴ~の故郷の加西からじゃなくてすまない。
でも、播磨国風土記にとって大切な場所なんじゃ。
昔ここに播磨国の国府があったとされるんじゃ。
ねっぴ~
国府って何?
フドッキー博士
奈良時代から国ごとに置かれた、税、軍事などの仕事を行う地方政治の中心地なんじゃ。今から1300 年前の和銅 6 年(713)5月、奈良の朝廷から、全国 60 余国に地誌をつくるように命令があり、播磨国は、国府に務める楽浪河内(さざなみのこうち)を中心に報告書の作成がはじまったといわれておる。これが播磨国風土記なのじゃ!
ねっぴ~
でも博士、郵便局しかないやん!ここにあったという証拠はないの?
フドッキー博士
いい質問じゃな。実は建設前に発掘調査が行われ、役所に使われたような大きな建物跡が見つかっておるんじゃ。現在は姫路市の埋蔵文化財センターで出土品や発掘の様子が見学できるぞ。国府は現在の姫路駅の北からお城付近まで広がっていたそうじゃ。
本町遺跡の出土品と遺構写真

姫路市埋蔵文化センター(079-252-3950) にある本町遺跡の出土品と遺構写真

ねっぴ~
そんなに大きかったんや!国の大事業である風土記づくりがここから始まったのね。旅のはじまりにふさわしい場所ですね博士。これからの旅が楽しみ。風土記ドキドキ!

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第2回 賀毛郡 その1

ねっぴ~
フドッキー博士、播磨国風土記が作られた1300 年前から加西市ってあったの?
フドッキー博士
加西という地名はないよ。播磨国風土記は郡ごとにつくられておるんじゃ。加西市は賀毛(かも)郡にあり、そのほか加東市と小野市も含まれておるんじゃ。
賀毛郡
ねっぴ~
賀毛郡はずいぶんと大きかったんやな。郡の次は…町があるん?
フドッキー博士
いい質問じゃな、ねっぴ~。人々が集まってできた村はあるんじゃが、これとは別に20人ほどになるように世帯を集めて「戸」という集団をつくり、50 戸を集めて一つの里としたんじゃ。
ねっぴ~
でも博士、なぜ賀毛って名前なの?
フドッキー博士
播磨国風土記には「賀毛と号(なづ)くる所以は、品太(ほむだ)の天皇(すめらみこと)の世、鴨村に双の鴨、栖(す)を作りて卵を生みき。故、賀毛の郡といふ。」とあり、つがいの鴨が卵を産んだから「賀毛」と名付けたそうなんじゃ。
ねっぴ~
風土記ドキドキ!めっちゃ単純なのね。今でも加西のため池には鴨をよく見るけど、昔から加西には鴨が飛んできてたのね。
フドッキー博士
毎年同じ時期に飛来する渡り鳥は、周期を告げる神聖な鳥とされていたのじゃ。鴨は越冬にくるから、卵を産むのは珍しいことなのじゃ。

第3回 賀毛郡 その2

ねっぴ~
前回は賀毛郡の地名の由来を教えてもらいました。20 人ほどになるように世帯を集めて「戸」をつくり、50 戸を集めて「里」としたんですよね、博士!
フドッキー博士
そうじゃ、ねっぴ~、よく勉強しておる。では、ここで問題じゃ。賀毛郡には12の里があったから、賀毛郡の人口は何人だったでしょうか?
ねっぴ~
え~と、20 人× 50 戸× 12 里でしょ。12,000 人!
フドッキー博士
正解じゃ!一方、播磨国全体の人口は、現在の研究では、他の史料と併せて検証すると、95里あったと言われているので、そこから計算すると、播磨国全体の人口は95,000 人程度と考えられるんじゃ。当時はかなりの大国だったのじゃ。
ねっぴ~
賀毛郡って、そんな大国の一部だったのね。でも賀毛郡って加西だけじゃないんでしょ?
フドッキー博士
賀毛郡は現在の加西、小野、加東で、加西地域が含まれているのは上鴨里、下鴨里、修布(すふ)里、三重里、河内里、雲潤(うるみ)里、楢原(ならはら)里、川合里なんじゃ。これから、みんなの住んでいるところも訪れていくぞ!
賀毛郡の里 比定地

賀毛郡の里 比定地

ねっぴ~
風土記ドキドキ!楽しみやね。ところで博士、「里」と「郷」って違うの?
フドッキー博士
いい質問じゃな。実は715 年頃から行政単位が「里」に代わって「郷(ごう)」が使われるんじゃが、播磨国風土記は「里」で書かれているので、715 年前後に記述されたと考えられておる。この年代から、現存する風土記の中で一番早くにまとめられたと言われておるんじゃな。

第4回 鴨坂・鴨谷

ねっぴ~
ぜ~ぜ~、博士、しんどいよ。ここはどこなん?
フドッキー博士
ここは北条町古坂から鴨谷町にぬける古坂峠じゃ。
播磨国風土記では「鴨坂」と書かれてるところじゃ。
ねっぴ~
車が走る道路に沿って、こんな素敵な小道があったんや。よく整備されてるね。
フドッキー博士
古坂里山公園の散策路で、ここからランドマークタワーにも行けるぞ。播磨国風土記には「一つの 矢を発ちて、二つの鳥に中(あた)たりき。即ち、矢を負ひて山の岑より飛び越えし処は、鴨坂と号(なづ)け、落ち斃(たふ)れし処は、仍(よ)りて鴨谷と号(なづ)く。羹(あつもの)を煮し処ところは、煮坂 といふ」と書いてあるんじゃ。つまり、放った一本の矢が偶然にも二羽の鴨に当たり、鴨は飛んで逃げようとして、飛び越えたところが鴨坂で、落ちたところが鴨谷、羹(汁物など)を煮たところが煮坂というんじゃ。
ねっぴ~
傷ついた鴨は この峠を越えて今の鴨谷町に落ちたのね。鴨が落ちた谷だから鴨谷。
金毘羅宮から見下ろす古坂峠

金毘羅宮から見下ろす古坂峠

フドッキー博士
そうなんじゃ。毎年同じ時期に飛来して、同期を告げる鴨を神聖な鳥と説明したが、一本の矢が二羽に当たるのもめでたいことと言えるのじゃな。
ねっぴ~
風土記ドキドキ!そんな神聖なめでたいものを料理しちゃっていいの?
フドッキー博士
めでたいものは、まず神にささげるんじゃ。そのあと人も食べるのが古代からの日本のスタイルじゃ。鏡餅もお節料理も神棚にあるじゃろ。次は鴨をささげた煮坂に行ってみるかの。

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第5回 二カ坂(河内町)

ねっぴ~
前回は、応神天皇の従者が放った矢が鴨に当たり、鴨が飛び越えた坂が「鴨坂」で、力尽きた場所が「鴨谷」でしたよね。それでここはどこなん?
フドッキー博士
その鴨を煮たところなんじゃ。播磨国風土記では「煮坂」と記されておる。これが今いるところ、現在の河内町二カ坂なんじゃ。
ねっぴ~
この坂を越えるとお隣の西脇市に入るよね。
フドッキー博士
実は同じ播磨国風土記の託賀(たか)郡条の法太里(ほうたのさと)にも、二カ坂について記述があり、建石命(たけいわのみこと)が御冠(みかがふり)を置き、つまり「道切り」のまじないをすることで、讃伎日子(さぬきひこ)の侵入を防ごうとした場所と書かれておるんじゃ。
ねっぴ~
託賀郡って今の 西脇や多可町のことでしょ。つまり今と同じ、昔もここが郡の境界だったわけね。でも博士、なぜ鴨谷で落ちた鴨をわざわざ、ここで料理するの?
二我坂
フドッキー博士
いい質問じゃ、ねっぴ~。実は郡の境界で鴨を煮るという行為もまじないなんじゃ。神聖なる鴨を神に捧げ、境界を神と確認し明確にしたわけなんじゃ。
ねっぴ~
なーんだ、鴨料理のいい匂いを隣の村に流し、自慢するためかと思ったわぁ。
フドッキー博士
お互いに郡の境界でまじないをするということは、この道が風土記の時代から人々の行き来する道で、郡の境界というものが強く意識されていたといえるの。

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第6回 修布の井戸(吸谷町)

ねっぴ~
修布(すふ)の井戸って、2 月8 日にあった風土記フォーラムで古代史の研究者が注目していた場所ですよね、博士?
フドッキー博士
その通りじゃ。播磨国風土記に書いてある井戸が、今も実際に残っているのじゃ。吸谷町の柏原家の井戸がそうじゃ。
修布の井戸

修布の井戸

ねっぴ~
博士、この井戸って深くないね。水面を見ているとなんか吸い込まれそう。
フドッキー博士
ねっぴ~、気をつけるのじゃ!播磨国風土記の中で、水を汲みに来た女性がこの井戸に吸い込まれたと書いてあるんじゃ。
ねっぴ~
もう、先に言ってよ。でもこの井戸の名前が、富田小学校の校歌にも出てくるらしいですね。
フドッキー博士
この井戸が「すふ井」と呼ばれ、それが由来で、ここ吸谷町あたりは修布の里と呼ばれているんじゃ。「♪むかしゆ~かしい 修布の里♪」
ねっぴ~
古代からの里の名前を校歌に刻むことで、地元の方々に伝承されているんですね。
風土記ドキドキ!
フドッキー博士
古来より、井戸は異界へ通じる入口であり、空間を結ぶものとも考えられておるんじゃ。鎮岩町にある「潮の井」、通称「ブツブツさん」も有名で、和歌山県の熊野浦より潮水が送られ、ブツブツ湧き上がっていると言われておるのじゃ。

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第7回 鹿咋山(かくいやま)

ねっぴ~
博士、前回に続いて、修布里(すふのさと)ですね。
フドッキー博士
今回は、鹿咋山(かくいやま)じゃ。「播磨国風土記」
の中で、応神天皇が修布里に狩りにやって来て、
山中で舌をかんだ白鹿と遭ったそうだ。だから、この山
は鹿咋山と呼ばれると書いてあるんじゃ。
ねっぴ~
風土記ドキドキ!風土記には鹿がよく登場するけど、舌をかんだ鹿って、めずらしいですね。
フドッキー博士
実は同じような話が、『播磨国風土記』の宍禾郡(しさわのこおり)にもあるんじゃ。かっての宍粟郡のことじゃが、伊和大神が国づくりを終え国境を定めるために巡幸していると、舌を出した大きな鹿と遭ったそうじゃ。
ねっぴ~
白い鹿って、なんか意味があるの?
フドッキー博士
白い鹿は霊獣と考えてよいの。狩りの途中に霊獣が現れたという鹿咋山も霊山といえるかもしれんの。王者の狩りは祭祀とセットで、獲物をその土地の神にささげ共食することで、土地の支配を確立したんじゃな。
ねっぴ~
ところで、鹿咋山ってどこなの?
フドッキー博士
現在の北条町黒駒の女鹿山自治区と西上野町にまたがる女鹿山と考えられておる。この一帯には、女鹿山古墳群もあるんじゃ。
女鹿山

女鹿山

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第8回 三重の里

ねっぴ~
博士、今回は三重の里ですね。
フドッキー博士
ここは『播磨国風土記』に書かれている里でも、おもしろい話が土地の名前の由来になっておる里なんじゃ。
ねっぴ~
前に紹介した吸谷町にある修布(すふ)の井も、女の人が井戸に吸いこまれた話だったけど、怖くないよね?
フドッキー博士
少し怖いかもしれんぞ。『播磨国風土記』には、こう書かれておるんじゃ。「昔、ある女がおって、タケノコをぬいて、布に包んで食べたところ、体が三重に折れ曲がって座り込み立ち上がれなくなった。だから三重の里という」と。
ねっぴ~
風土記ドキドキ!そんなにおいしいタケノコだったのかしら。ところで三重の里って現在のどこなんですか?三重県ならわかるけど。
フドッキー博士
下里川の中下流域の一帯が三重の里と考えられておるんじゃ。実は三重県も、疲れたヤマトタケルノミコトの足が、三重にまがったことが由来と『古事記』にあるんじゃ。
ねっぴ~
博士、イオンモール加西北条店の北西に「三重橋」ってあるよね。
フドッキー博士
よく知ってるのぅ。昔、北条が「三重北条」と呼ばれていた名が残っておるのじゃ。しかし、三重の里の範囲は後の地名の変化を考えると、もう少し研究が必要なんじゃ。
三重橋

三重橋

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第9回 楢原(ならはら)の里・飯盛嵩(いいもりだけ)

ねっぴ~
博士、今回は楢原の里ですね。現在のどのあたりなんですか?
フドッキー博士
そうじゃのう。今の富合地区の一部と九会地区の一部で、おおよそ万願寺川の西側の地域と考えられておるんじゃ。
ねっぴ~
楢原ってどんな意味なの?
フドッキー博士
楢というのは、ブナやカシの木で、いわゆるドングリのなる木の総称なんじゃ。地名になるくらいだから、昔はこのあたりにブナやカシの原生林が広がっていたのかも知れんの。
ねっぴ~
楢原の里の中に、飯盛嵩という山が出てくるんですけど、豊倉町には「飯森」とか「飯盛野」という地名が残っているけど何か関係があるの?
フドッキー博士
ねっぴ~、なかなかするどいの~。「フラワーセンター前」の交差点の東に見える山が飯盛山じゃ。風土記の中で大汝命(おおなむじのみこと)が飯を盛ったから飯盛嵩と呼ぶようになったと書かれているのが、この飯盛山と考えておるんじゃ。
飯盛山

飯盛山

ねっぴ~
風土記ドギドキ。やっぱりご飯を盛ったような形をしているわね。でも飯盛山って他でも聞いたことがあるんだけど。
フドッキー博士
はりま風土記の中の揖保郡条の中にも飯盛山という地名が出てくるんじゃ。昔の人は形の良い山を神々が住む特別の山と感じ、山上から見える播州平野を見ながら、豊作を祈ったんじゃろうな。

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